GWは北鎌倉でお寺巡り+神社も ― 安養院~安国論寺~妙法寺~大寳寺~八雲神社 - 神奈川県鎌倉市 - |
GW後半は天気が続いていたので、4日のみどりの日に一眼レフカメラを持って出かけることにした。
GW中は観光地はどこも大勢の観光客で一杯のようだが、とりあえず鎌倉に行ってみることにした。ひとまず、横浜に出て昼食をとってから、横須賀線で鎌倉へ、電車は結構混んでいた。
鎌倉について駅を出ると、駅前は観光客でごった返していた。鎌倉の有名な観光名所はどこも人が多いだろうなと思っていたが、とりあえず、ウチを出る前にチェックしていた安養院に行ってみることにした。北条政子ゆかりのこのお寺はツツジが綺麗なところだと紹介されていたので候補の一つに挙げていたのだ。駅からはスマホのGPSで経路を確認しながら歩いて行った。
駅周辺は観光客でいっぱいだったが、駅から離れるにしたがって、人もまばらになっていった。歩いて15分ほどで安養院に着いたが、ツツジの花はほとんど萎れていた。残念。
入口にある案内板によると、このお寺は「北条政子が夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられている」そうだ。中に入ってみると、訪れている人はまばらで、ひっそりしていた。奥の方に行ってみると、北条政子の墓があった。意外に小さな墓だった。
安養院を出てから、他のお寺に行ってみようと思って、安国論寺にってみることにした。案内板を頼りに歩いていくと、15分ほどで着いた。
公式ウェブサイトによると、このお寺は「建長五(1253)年安房国から鎌倉入りした日蓮聖人が草庵を結ばれた場所に創建され、ここで国の安泰と人々の幸せを願い『立証安国論』を執筆された」ところだそうだ。
ここも訪れている人はまばらで、とても静かだ。
この後は、近くにある妙法寺にも行ってみることにした。
受付で拝観料を払うと、お参りするための線香も渡された。その時もらったリーフレットによると、このお寺は「建長5年(1253)、日蓮聖人が鎌倉松葉谷を布教の拠点と定め、小庵を結ばれた地に建立された霊跡寺院」だそうだ。
火のついた線香を渡されたので、まずは本堂でお参りをした。その後は、順路に従って仁王門へ。門の左右には金剛力士像(右側が阿形像、左側が吽形像)が安置されている。
仁王門の真ん中は通れないようになっていたので、脇を通って裏側へ。そこからさらに階段を登っていったが、結構な段数があった。
階段を登って行った先には、法華堂があり、そこから少し離れたところには鐘楼があった。
鐘楼の脇にはまた階段があり、登っていった先には石の柵で囲われた石碑が立っている。案内板によると、これは「松葉ヶ谷御小庵跡」で、日蓮証人が慶長五年から文永八年(1253〜1271)までの18年間、鎌倉における布教伝導の拠点とされた霊跡だそうだ。
さらに「護良親王御墓」という看板が立っていたので、矢印の方に行ってみると、また階段だ。狭くで急な階段を登っていって、頂上に着いた時には、心臓バクバク、足はガクガク状態だ。そういえば、受付で係の人から「山の上まで行けます」と言われたが、その時は気には留めていなかったが、このことだったのか。
頂上の狭いが開けた場所ににあったのは後醍醐天皇の皇子で、建武の中興の成就に力を尽くし、征夷大将軍となった護良親王の墓だ。
また、そこから鎌倉の街と海岸を見ることができた。
山の頂上までやってきたので、またあの狭くて急な階段を降りなければならない。下まで降りた時は流石に疲れて、ベンチで一休み。
妙法寺を出た後は、近くに他のお寺もあるようなので、行ってみることにした。そこは大寳寺というお寺で、ここも日蓮宗のお寺のようだ。
案内板によると、「応永6年(1399)、佐竹氏の一族である佐竹義盛が出家し多福寺建立した後、文安元年(1444)日蓮宗の高僧一条院日出上人が再興し、旧寺名を山号に改め多福寺大寳寺となった」そうだ。
他にもお寺がいくつかあったようだが、流石に歩き疲れてきたので、鎌倉駅に戻ることにした。途中、八雲神社という神社があったので、寄り道していくことにした。
鎌倉駅まで戻ってきて、喉が渇いたのでビールを飲みたかったが、駅前は観光客でごった返していたので、横浜駅まで戻ってから一杯飲むことにした。ひゃ〜、今日はたくさん歩いたな。
おわり。