令和ゆかりの地、太宰府を散策 - 福岡県太宰府市 -

Walking around Dazaifu associated with new era name "Reiwa" -2019.06.17-

- Dazaifu City, Fukuoka Prefecture -

Part 1 - 大宰府政庁跡と坂本神社

先日、実家のある福岡に帰ったとき、太宰府を散策してきた。


その日は、一旦博多駅に行ってキャリーバッグをコインロッカーに預けて、地下鉄で天神へ。天神にある西鉄福岡(天神)駅から急行電車に乗って二日市へ。そこから一駅戻って「都府楼前」駅で降りる。都府楼前駅は各駅停車の電車しか止まらない小さな駅だ。


この日は太宰府まで来たとはいっても、太宰府天満宮ではなく、大宰府政庁跡に行ってみようと思っていたのだ。太宰府天満宮には子供の頃から何回も行っているが、大宰府政庁跡には行ったことがなかったのだ(あるのは知っていたが、今まで見向きもしなかったのだ)。



西鉄・都府楼前駅の駅舎

駅前のタイル張りの案内板

今年4月1日に新元号「令和」が発表され、その典拠が、今から1200年余り前の奈良時代末期に成立した日本最古の和歌集『万葉集』に収められた「梅花の歌三十二首 序文」にある

「初春の月にして(しょしゅんのれいげつにして)、気淑く風ぎ(きよく かぜやわらぎ)、梅は鏡前の粉を披き(うめは きょうぜんのこをひらき)、蘭は珮後の香を薫ず(らんは はいごのこうをくんず)。」

という文言を引用したもので、その中にある「令」と「和」の二字をとって「令和」としたとされている。そして、それには「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められているという。


大宰府で行われた「梅花の宴」を主催したのは、万葉集の撰者・大伴家持の父で、大納言を務め、歌人でもあった大伴旅人だ。彼は神亀4年(727)頃、大宰府の長官(大宰帥)として赴任し、天平2年(730)正月13日に、大宰府の役所が管轄していた西海道の役人たちを自宅に招いて、この宴を開いたとされているのだ。


ということで、今回は令和ゆかりの大宰府政庁跡とその周辺を散策してみることにしたのだ。


西鉄・都府楼前駅を出て、歩いて10~15分ほどで大宰府政庁跡の入口に着いた。ちなみに、大宰府政庁は別名「都府楼」ともいい、西鉄の最寄駅も「都府楼前」駅なのだ。「だざいふ」の表記も、大宰府政庁を表す場合は「大宰府」、太宰府天満宮や地名(太宰府市)を表す場合は「太宰府」と表記するのが一般的なようだ。


ここで、大宰府について少しお勉強を。

大宰府とは、今から1300年程前の飛鳥時代末期に、九州の筑前国(福岡県北部)に設置された地方行政機関のことで、九州の政治・文化の中心であり、日本の外交、対外防備の先端拠点でもあったのだ。平城京と同じように、大宰府も幅36mの朱雀大路を中心に、約2km四方の碁盤の目の整然とした街並みをした都城として作られたという。その中枢である政庁は都の北寄りに置かれ、大きさは南北215m、東西119mで、当時の地方の役所で最大規模を誇った。正門(南門)の高さは18mほどもあり、敷地内には瓦葺屋根や朱色の柱を用いた中国風の建物が並んでいたという。

当時、外国からの使節は、現在の福岡市の舞鶴公園(福岡城址)にあった鴻臚館(当時の迎賓館)で応接されたあと、大宰府に入り、朱雀大路沿いの客館に滞在。そして外交儀礼を行うために大宰府政庁に入り、豪華な食事や中国風の喫茶でもてなしを受けたという。

このように大宰府は当時の日本の威信をかけて築かれた西の都だったのだ。そして、外交使節や商人が往来する国際都市として栄えていったという。

しかし、11世紀頃から大宰府の役割も次第に薄れていき、国際都市としての地位は、交易で隆盛した博多(福岡市)に取って代わられることになった。


さて、大宰府政庁跡に入ってみると、今となっては広大な原っぱに、門や建物の柱を支えた礎石が並び、回廊跡が残っているだけだが、その規模の大きさには圧倒される。何分にも、建物などは残っていないので、当時の姿がどのようなものだったのかは想像するしかないけど…。



入り口にある石標

大宰府跡の説明板


正面の石段
地元のおじさんたちが草取りを
されていました。

南門跡の礎石(1)


南門跡の礎石(2)

築地跡


中門跡

回廊跡


回廊跡に沿って何か(建物?)の跡と礎石
同じものが反対側にもあります。

礎石


大宰府政庁の中心建物・正殿跡には
3つの石碑が並んでいます。

石碑(1)


石碑(2)

石碑(3)


正殿跡の礎石

正殿の背後にある後殿跡


正殿の背後の左右にある東楼跡

西楼跡


正殿跡の背後から正面を見たところ

ひと通り政庁跡を歩いてまわったあとは、ここから北西にある坂本八幡宮に行ってみることにした。

その途中には紫陽花が咲いていました。








右側の写真は、大弐紀卿(だいにきのきゃう、紀男人(きのおひと))の「梅花の歌」の歌碑で、「正月立ち(むつきたち) 春の来たらば(はるのきたらば) かくしこそ 梅を招きつつ(うめををきつつ) 楽しき終へめ(たのしきおへめ)」と記されています。


坂本八幡宮は「梅花の宴」の舞台となった大伴旅人の邸宅があったともいわれている神社だ(ただし、いくつかの説はあるが、正確にはどこにあったのかははっきりとは分からないようだ)。



坂本八幡神社の入口

鳥居


本殿

坂本八幡宮縁起が書かれた説明板

坂本八幡宮は土地神・産土神として崇拝されている神社で、応神天皇を御祭神としているそうです。


Part 2 - 観世音寺とその周辺

大宰府政庁跡と坂本八幡宮を訪れた後、辺りを散策しながら観世音寺に行ってみることにした。

案内板を頼りに観世音寺の方向に歩いていくと、所々に歌碑がある。



大宰帥大友卿の報凶問歌の歌碑

筑前国守・山上憶良が撰定した歌の歌碑

大宰帥大友卿の報凶問歌(だざいのそちおおともきょうのきょうもんにこたふるうた)

「余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理(よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり)」(万葉集巻五 793)。

これは大伴旅人の歌で、大宰府赴任後妻を亡くし、不幸を重ね、「世の中はむなしいものだとつくづく知るとき、いよいよますます悲哀の感を新たにすることだ」と歌った歌です。


以下は筑前国守・山上憶良が撰定した歌

(1)子等を思ふ歌

「爪食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより 来たりしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ」(万葉集巻五 802)

(2)反歌

「銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」(万葉集巻五 803)

これらは山上憶良が筑前国守として国内を巡行し、神亀五年(728)七月二十一日に嘉摩郡(かまのこおり)で撰定した歌六首の中の二首で、子を思う親心を歌った歌です。


さらに歩いていくと、「大宰府学校院跡」と書かれた説明板が目に止まった。説明板や太宰府観光のWebサイトによると、学校院(府学)とは、古代の律令官制機構を支える大宰府の役人養成機関で、西海道(九州)諸国の郡司の子弟が学んでいた。「職員令(しきいんりょう)」によると府学には博士1人が置かれたが、後に音博士(おんはかせ)・明法博士(みょうほうのはかせ)が増員された。天応元年(781)の太政官符には医生・算生(さんしょう)200余人とあるという。

「学生」は、官吏として必要な教養科目として『論語』『孝経』など儒教の基本文献など学んだ。「医生」は薬や医療のことを学び、医師となった。「算生」は算術を研究し、計算や測量などの技術系官人となったそうだ。

調査では蓮華文様塼が出土しているが、未解明な部分も多く残されているそうだ。


ただ、古の学校跡も、現在では一見田んぼや草むらのような景色が広がっている。



大宰府学校院跡の説明板

大宰府学校院跡

この後は、途中道に迷いながらも何とか観世音寺にたどり着いた。なかなか入口が見つからないなぁ、と思っていたら、そこは裏口だった。どうりで分かりにくかったわけだ。


観世音寺は、天智天皇が670年頃に、筑紫(福岡)で亡くなった母斉明天皇の追福祈願のために発願して建立された寺院だ。「府の大寺」とよばれ、西海道(九州)の仏教寺院の頂点となる大寺院で、761年には東大寺・下野薬師寺とともに三戒壇の一つとなったそうだ。



講堂(本堂)

金堂


五重塔心礎
金堂の向かい側にはかつて五重塔が
建っていたそうです。

楼鐘
中に吊るされている鐘が国宝・梵鐘です。

境内には、国宝「梵鐘」や、馬頭観世音菩薩立像や阿弥陀如来坐像、十一面観世音菩薩立像など何体もの巨像が林立する「宝蔵」がある。宝蔵に収められているこれら仏像は国の重要文化財に指定されている。高さ5mほどもある彫像が林立する様は目をうばわれる。



宝蔵

宝蔵の看板
館内は写真撮影禁止なので、内部の様子は
この看板の写真を見てください。

僕は小学校か中学校の頃、社会科見学で観世音寺に行ったことあり、その時も宝蔵の中も見学したんだが、その時の記憶ではとっても広々とした空間にとても大きな仏像が並んでいたというものだったが、中に入ってみると「あれ?こんなに狭かったっけ?」と思ってしまった。何分にも、小学生(または中学生)の頃なので、中の空間がもっと広々としていたように感じていたのだろう。


観世音寺の中をひと通り見て回った後は、裏口から入ったので正面入口の方に行ってみた。何のことはない。入口は県道沿いにあった。政庁跡の正面入口から県道を歩いていけば、迷わずに済んだのだ。



観世音寺の正面入口の石標

観世音寺を後にして、県道を政庁跡の方に歩いて行ったら「戒壇院」の入口があったので、ここにも行ってみることにした。


戒壇院とはどういうところなのか、説明板や太宰府観光のWebサイトによると、

「僧が守るべき道徳規範や集団規則を「戒律」といい、戒壇は正式な僧侶となるための授戒を行う場所。戒律は、聖武天皇に招請され来日した唐僧・鑑真によって伝えられたもので、鑑真は失明しつつも6度目の渡航でようやく日本へ渡り、京に向かう途中、観世音寺を訪れて、753年12月に日本で初めての授戒を行ったのそうだ。761年、観世音寺に戒壇院が西海道(九州)の授戒の場として設けられ、東大寺(奈良)、下野薬師寺(栃木)の戒壇院とともに、「天下の三戒壇」と呼ばれました。」

だそうだ。



戒壇院の正面入口の石標

塀のすぐ内側にそびえる大木


山門

本堂


鐘楼

西戒壇再興碑と書かれた石碑

戒壇院を出てから、さらに県道を歩いて行ったら、朱色の柱の建物が目に止まった。この建物は「太宰府展示館」で、大宰府史跡の発掘調査によって検出された遺構(溝)の一部を保存公開し、出土遺物や模型などで大宰府の歴史と文化をご紹介している施設だが、この日は月曜日で休館日だったので中には入れなかった。残念。



太宰府展示館

その後は大宰府政庁跡の入口まで戻って、政庁跡の正面から南に真っ直ぐ伸びる「朱雀大通り」を歩いて御笠川にかかる朱色の欄干がある橋まで行ってみたら、その脇には大宰府朱雀門の礎石と推定されている礎石がある。ここに朱雀門があったと考えられているそうだ。



御笠川にかかる橋の欄干

柿本人麻呂の歌を刻んだ歌碑

右の写真は、柿本人麻呂が筑紫国に行くときに、海路において作った歌を刻んだ歌碑で、「大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ」(万葉集巻三 304)という歌です。



大宰府朱雀門の礎石と推定されている礎石

大宰府朱雀門礎石(推定)の説明板

大宰府朱雀門(と推定される)礎石の写真を撮った後は、そこから三笠川沿いに歩いて都府楼前駅まで戻ることにした。


おわり。



関連サイトはこちら

太宰府市ホームページ::

http://www.city.dazaifu.lg.jp/admin/important/14987.html

日本遺産太宰府 古代日本の「西の都」 ~東アジアとの交流拠点~:

http://www.dazaifu-japan-heritage.jp/